本日は奴隷の哲学者 エピクテトス「人生の授業」をご紹介いたします。
著者は上智大学文学部哲学科教授の荻野博之先生です。
本書のテーマはずばり「生きづらい世の中をどう生きていくのか」という、ちょっと深くて悩ましいお話になります。
先にどういったお悩みについて今回お話をさせていただくのか、整理しておきたいと思います。
●自由に生きたいが、そのための財力も影響力もない
●他人の評価や視線が気になり自分らしく行動できない
●自分の欲望と欲求になかなか打ち勝てない
●困難な状況に立たされると自分を見失ってしまう
この4つです。
いかがでしょうか?どれも気になるものばかりですね。
ただ皆さんが今、一番気になっていらっしゃるのは「奴隷の哲学者エピクテトスって誰?」…ここだと思います。
日本ではあまり馴染みがないかもしれませんが、このおじさん只者ではありません。
ローマ皇帝マルクスアウレリウス、ニーチェ、アラン、夏目漱石といった錚々たる偉人たちにリスペクトされてきた、古代ローマを代表する伝説級の哲学者…それがエピクテトス大先生というわけであります。
今日はそんなエピクテトス先生の言葉を、彼の壮大な人生ドラマを交えながらお届けしていきたいと思います。それでは参りましょう。
背景知識
まず、このエピクテートス大先生を差し置いて話をすることができませんので、この人物についてご紹介していきたいと思います。
彼が生きた時代というのは、紀元前1世紀の後半から2世紀の前半にかけての古代ローマです。
この時代といえば、当時のローマ帝国が最大の領土に達し、空前の繁栄を誇った五賢帝時代にあたります。
ちなみに、五賢帝いうのは、その時代を治めていた5人の賢い皇帝のことを指します。
ネルウァ、トラヤヌス、ハドリアヌス、アントニヌスピウス、マルクスアウレリウス…この5人です。
そして、このエピクテトスが生きた時期というのは、この五賢帝のうち、1番目のネルウァ、2番目のトラヤヌス、そして3番目のハドリアヌスという1番目から3番目までの皇帝の時代にあたります。
ただ、そんな平和と繁栄の時代を裏で支えていたのは名も無き奴隷たちで、エピクテトスはまさにそのひとりだったというわけです。
そして、ようやく奴隷という立場から解放されることになると、残りの人生を哲学の教師として過ごしたとされています。
当然そんな彼が経験してきた苦労というのは、筆舌に尽くしがたいものがあります。
両親が奴隷という理由でなぜか自分も奴隷という運命を背負い、さらにエピクテトスという名前もどっかの誰かが適当につけた名前で、自分の本当の名前すらよくわからない。
さらに、肖像画にもあるように足に障害があり、自由に動けない。
奴隷から解放されたらされたで、今度は国外追放という憂き目に遭い、そこからの極貧生活…もう踏んだり蹴ったりです。
そんな中、ローマ帝国は未曾有の繁栄を享受し、人々は平和に豊かに生活して、それを彼は奴隷という立場でずっと見せつけられてきたわけです。
これはSNSで誰かの投稿を見て「うらやましい」とか「悲願でしまう」とか、もうそういう次元ではないです。
「えーちょっと待ってくれ。私の人生なんだ!」誰だってそうなりますし、普通に精神が崩壊してしまいます。
ただこちらの画像をご覧下さい。
このエピクテトス先生のこの 何とも言えないふてぶてし表情。
痛くも痒くもないみたいなそんな顔しています。おまけに頬杖までついて、リラックスしています。
そうなんです。エピクテトス先生はそんな理不尽すぎる現実を前にしても、僻むことも、心折れることも、絶望することもしませんでした。
なぜなら、彼の心は哲学という精神の鎧によってガチガチにコーティングされていたからです。
もちろん哲学と言いましても、いろんな学派、種類があるのですが、エピクテトス先生はその中でもストア派と呼ばれる学派の代表的人物になります。
ストア 派というのは、古代ギリシャにおいてゼノンという哲学者が作った学派の一つで、実践的な禁欲主義をその特徴とします。
ちなみに英語のストイックという言葉の語源は、このストア派から来ています。
もちろんこのストアというのは、お店のストアではありません。当時のアテネ市内の中心部の広場に、柱の列がズラァと並んでいる柱廊がありまして、それをストアというんですね。
そして、その柱廊ストアの前で、ゼノンさんが哲学の講義を行っていたことから、ストア派と呼ばれるようになったというわけです。
そんなストア派の代表的人物であるエピクテトス先生の言葉というのは、彼の弟子たちが残した現語録くらいしか残っておらず、非常に貴重なものです。
そして、彼の言葉を現代風にわかりやすくイラストを交えながら紹介してくれているのが本書であるというお話です。
次のテーマでは今までの話を踏まえた上で、現代人が抱える4つの悩みについて見ていきたいと思います。
他人と比べ、落ち込んでしまう人へ
これに関して、エピクテトス先生のお考えを聞いてみたいと思います。
「有名な人、影響力のある人、お金持ちの人を目にした時、あなたは『なんて幸せそうな人なんだ』『自分もあの人のように幸せになりたい』そう感じてしまうことはないだろうか。そんなあなたに質問が。ここに2つの人生があるとしよう。一つは何かに捉われていける人生、もう一つは何もとらわれずに自由に生きる人生だ。さあ、あなたはどっちの人生が幸せだと思うか答えてほしい。『そうか何にもとらわれず、自由に生きる人生こそが幸せな人生である』と、あなたはそう思っているわけだ。じゃあ地位や名誉や財産にとらわれ、それを基準に生きることが本当に幸せだといえるのだろうか。もしそれらを得られなければ不満が生まれ、得られたら今度は奪われることや減ることに対して恐怖が生まれる。何かに捉われて生きる人生とはつまりそういうことだ。もし本当に自由を手に入れたいと願うのであれば、我々次第でないものを、軽く見なさい。」
エピクテトス先生は、自分の身に降りかかる全ての物事は2つに分けられると言います。
ひとつは、自分次第でどうにかできるもの。
もうひとつが、自分次第でどうにもならないものです。
つらいことや悲しいことがあったとき、腹が立つことや羨ましいことがあったとき、こんな不愉快で嫌な状況に陥ってしまったとき、まずすべきは、自分しだいかそうでないかを頭の中で振り分けることなんです。
例えば、財産、評判、見た目あるいは機嫌の悪い上司なんかどうでしょうか。
自分の裁量で、自分の手足のように、今すぐ自由にコントロールできるかというとできないわけです。
努力次第では「どうにかなるんじゃないの」という考え方も一つですが、多かれ少なかれ、時の運や誰かの意向といった不確定要素が入り込む余地がある以上、それは我々次第ではないものになるんです。
にもかかわらず、多くの人はそれが手に入らないと、それが改善されないと、この世の不幸がすべて自分に降り注いでいるかのような錯覚に陥ってしまう。
だからエピクテトス先生は、こういった我々次第でないものを、人生にとって重要なものだと真剣に捉えなくていい。そんなものはもっと軽んじていい。
その代わり、自分がコントロールできる範囲のことに重きを置くのだと言われているわけです。
例えば「午前中はスマホを見ない」とか、「羨ましい気持ちが湧いてきてしまうようなSNSを見ない、あるいは削除する」とか、「寝る前の30分前は必ず読書をする」とか、そういった自分次第でどうにかできる範囲のことをやる。
そこに自分の欲望のエネルギーを集中させる。
それこそが、自由で幸せな人生も送る上での秘訣なんだというわけですね。
よくストア哲学というとストイック、禁欲、我慢というイメージだけが先行しますが、別にすべての欲望に蓋をして、我慢して、聖人君子のように生きなさいと言っているわけではありません。
自分の裁量の範囲内にあるものだけに欲望の対象を限定し、欲望をコントロールすること、それが彼らの意味するところの禁欲であり、それこそが人間の幸、不幸を分けるんですとそう言ってるわけなんですね。
他人の評価や視線が気になってしまう人へ
ただどうでしょうか。
そうは言っても今度は「他人の評価、誰かの視線が気になってしまい、身動きが取れない、行動できない。」
こういったまた別の問題悩みを抱えてしまうケースもあると思います。
これに対し、エピクテトス先生はこのように言われます。
「自由に生きる唯一の道、それは自分の意志の中で生きることだ。もし自分の意見がみんなと違っても、自分が正しいと思うのならそれは貫くべきだし正しくないと騒ぎ立てる人間を恐れる必要はない。なぜならあなたの行動も考えも判断も、すべてあなたのもの、あなたの所有物だからだ。どれだけ体を拘束されても、体がたとえ動けなくなったとしても、人が何を思い、何を考えるか、この意志だけは何びともたとえ神でも奪えない自由なものだ。しかし、他者を恐れた者の判断にただ従って生きるということは、その意志を自分以外の誰かに渡してしまうことを意味する人間にとって、意志以上に優れたものはないのだ。」
いかがでしょうか。
言葉に宿る説得力が半端でありません。
ここで語られている意志というのは、自分が何をしたいと願い、何を優先し、何をすべきと考え、その結果行き着いた結論の事を指しています。
人間というのは生きていれば、いろんな制約がありますよね。
お金のこと、病気のこと、家族のこと、あとは社会や世間のルール…いっぱいあります。
エピクテトス先生は、その制約の極限状態を何年も体験しているんです。
そのうえで「唯一誰にも侵害されない意志だけは自由なんだ」と悟ったんです。
ですから「そんな人間にとって尊い意志を自ら押し殺すなんてとんでもない」「他人の意志の中で暮らすなんて、理由がわかんない」とおっしゃってるわけです。
どうでしょうか。他人の顔色他人の視線に怯えながら生きることが、どれだけしょうもないか思い知らされますよね。
自分の欲望と欲求に打ち勝てない人へ
さぁ、次、3つ目の悩みについて見てまいります。
自分の欲望と欲求になかなか打ち勝てない。
先程、欲求の対象をコントロールしましょうという話がありましたが、確かに 難しそうですね。
早速、エピクテトス先生の話をのぞいてみましょう。
「もし欲望や快楽に負けそうならば、2つの時間を思い浮かべるといい。一つはあなたがその快樂を享受している時間。もう一つは、その後それを後悔し、自分を責めている時間だ。果たしてどちらの時間を過ごした方が自分で自分をたたえたくなるか、じっくりそして冷静に考えてみてほしい。私たちの悩みというのはなにも苦しいとか、怖いとか、そういった感情だけが作っているんじゃない。私たちが大好きな欲望や快楽もまた、悩みや苦しみを生み出す種になるんだ。好き放題食べて、好き放題寝て、好き放題遊ぶ。そういった快楽に溺れ続けることは、いずれ味わうであろう大きな苦痛に見て見ぬふりをして、後回しにしているだけに過ぎない。本当にあなたが心の底から『自分の人生を楽しみたい』と思っているのなら、今、目の前にある小さな苦痛を選択する勇気を持ってほしい。また人間には、誰もが人から愛されたい、好かれたい、気に入られたいといった承認欲求がある。その欲求が満たされなかったとき、悲しくなったり、辛くなったりする。この承認欲求は、人としてなくてはならない欲求ではあるが、問題はこの欲求が強くなりすぎた時に起こる、なんとしてでも気に入られたい、良く思われたい、その気持ちが強くなればなるほど、人は奴隷に近づいてしまう。これは自分の行動を、自分以外の何者かに握られ、支配されることを意味する。つまり、他人からどう見られるかとか、どう評価されるかを気にするということは、自ら自由な生き方を放棄してしまっていることと同じなのだ。」
いかがでしょうか。
「目の前にある小さな苦痛を選択することが大事ですよ」とありましたが、ここの意味するところは、要するに「人間誰しも生きていたら耐え切れないぐらいの苦痛を味わう時がやってくる。それを回避できるかどうかは日々の小さな苦痛の積み重ねなんですよ。」とそうおっしゃってるわけです。
後承認欲求の話も、なかなかはっとさせられますよね。
「自由に生きていきたいと心から願っておきながら、多くの人から認められ、愛され、承認欲求を満たしたいなんて、すごくおかしなことを言ってませんか。矛盾していますよ。」というご指摘です。
思わず笑ってしまうようなツッコミですが、これが約2千年前から言われていたのかと考えますと、あまり笑えませんよね。
困難な状況に立たされると自分を見失ってしまう人へ
さあそれでは最後の悩みについて見て参ります。
確かにとんでもない苦境の中にいたら、思考停止して負の感情に押しつぶされて、最終的に自分を見失ってしまいそうになりますよね。
さあこれについてエピクテトス先生の話を聞いてみたいと思います。
「人間生きていればいろんなことが起こる。素晴らしいことも苦しいこともつらいこともあるはずだ。ただそれを一つの出来事として、何となく過ごしてはいけない。その時、その出来事を経験したらあなたはあなた自身をよくよく振り返り、そのときの自分のことを記憶しておかないといけない。これが大切なんだ。そして『自分にはどんな優れた能力があるのか』をその時こそ問い続け、探し続けてほしい。そこで発見された力は、いずれ本当に困難な局面に立たされた時必ず役に立つはずだ。」
いかがでしょうか。要するに「普段から自分自身を知る習慣をつけておきましょう」と言ってるわけですね。
例えば、自分の感情を第三者のように日記をつけるなりして、客観的に見るトレーニングをしておく。それによって、自分自身の新たな強みを見つけたり、これまで以上に強みに磨きをかけたり、振り返っておく。
そうすることで、人はどんな困難が目の前に立ちはだかろうが、それを克服し、成長の機会に変えていけるのだ、とおっしゃってるわけです。
奴隷として生まれ、何度も苦境に立たされ続けてきたエピクテトス先生が、何度も内省を繰り返し、こういった心理に達したわけですからね。いち参考にしてみてはいかがでしょうか。
4つの悩みに関するお話が終わりました。
最後にエピクテトス先生が去った後の世界の話をしておしまいにしたいと思います。
エピクテトス没後の話
奴隷から解放されてから、彼はギリシャのニコポリスという場所で私塾を開いて、そこで哲学教師として働き、紀元135年静かにその生涯に幕を閉じることとなります。
その頃のローマ帝国というのは、五賢帝時代の3番目の皇帝であるハドリアヌスが、大きくなりすぎていく国家に少しずつブレーキをかけ始め、国を安定させた状態で、次の4番目の皇帝にバトンタッチを考えている、といった時期にあります。
ですから、国としてはまだまだ平和ですし、繁栄をしています。
そんな中、ローマのとある裕福な名門家庭に、非常に勉強熱心な少年がいました。彼はさまざまな学問に興味を持ち、日々勉学に励んでいたのですが、特に強い関心を示したのは哲学でした。
この少年を哲学の世界に導いた人物の名はルスティクス。ストア派の哲学者でした。
少年はいつも目を輝かせるようにしながらルスティクスの話に聞き、哲学についてもっと知りたい、もっと学びたいという気持ちを強めていきました。
そんなある日のこと…ルスティクスは蔵書の中からおもむろに一冊の本を取り出し少年に手渡しました。
「いったい何度本だろう。エピクテトス?効いたことのない名前だ。」
しかし、その利発な少年は、その本を開くとすぐにこの人物は紛れもない真の哲学者であり、自分にとって必要な存在であることを予感します。そして、彼はエピクテトスの言葉を一つ一つ吟味し、血肉し、自らの哲学として吸収していったのでした。
そして、紀元161年。エピクテトスの死去から26年後。
その少年は立派な大人に成長し、祖国ローマの皇帝として即位することになります。
彼の名はマルクス・アウレリウス。
ローマ帝国が最も栄えた五賢帝時代の大トリを飾った皇帝であります。
彼は心の底から哲学を愛していました。哲学者としていき、哲学者として死ぬ。それこそが彼の願いであり、夢でした。
しかし運命は、アウレリウスを大帝国の皇帝として選んだのです。
哲学者になりたいという夢…。しかし、皇帝として生きればならないという現実。
この2つに挟まれ、彼は葛藤し、苦しみ抜きました。
しかし、そんな苦境の中にあってもアウレリウスは立ち止まりませんでした。
自ら軍を率いて戦いに明け暮れている日も、多忙だと公務に追われる日も、自分の内面を見つめ、自分を戒める言葉を書き連ねていたのです。
それがあの有名な『自省録』と呼ばれる哲学書であり、彼が哲学を実践し、その身を守ってきたという確固たる証拠となる書物であるわけです。
そして、何より驚くべきは、この自省録にエピクテトスの名前や彼の言葉が随所に引用されている、ということです。
これはつまるところ、皇帝マルクス・アウレリウスが、エピクテトスの教えに救われ、支えられ、耐えきれるほどの困難や葛藤を乗り越えてきたことを物語っています。
名も無き元奴隷エピクテトス。
ローマ皇帝マルクス・アウレリウス。
この社会的身分が正反対の二人が、哲学を通して暗黙の師弟関係を結び、立場が逆転するという、まさに歴史的大どんでん返しです。
確かに、エピクテトスは名も無き奴隷として生を受け、不遇な運命を甘受し、哲学教師として静かにその生涯の幕を閉じました。しかし、その命が途絶えても彼の意志が宿った力強い言葉は生きることに苦しむ人々の心の中で今なお永遠に生き続けているのです。
というわけで、奴隷の哲学者エピクテトス人生の授業は以上でございます。
皆さんの人生の一助になれば幸いです。
最後までご覧いただきありがとうございました。
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