【無敵の自己肯定感】ツァラトゥストラ/ニーチェ

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 本日はドイツの哲学者ニーチェの「ツァラトゥストラ」こちらをご紹介いたします。

 どんな作品かといいますと、人生を前向きに、肯定的に生き抜く力を与えてくれる世界的名著でございます。

 まず、どういった方にお役に立ちそうな内容なのかをお伝えします。

「自分の人生に意義を見出せない」

「気の弱い自分を吹き飛ばしたりもう一回人生をやり直したい」

「自己肯定感の低さをどうにかしたい」

 これに1個でも当てはまれば ニーチェについて全くご存知ない方でも今回の内容は見ていただく価値はあると思います。

 ここ数年自己肯定感について悩んでいる方が多く、巷にはそういったジャンルの本が売れていません。

 ただ、いろんなテクニックや知識を仕入れてもあまり効果が見られなかったのであれば、ニーチェという劇薬に頼るのも一つの解決です。

 といいますのも、ニーチェ哲学のテーマは生の肯定であり、徹底的に自分の人生を肯定することに置いているんです。

 そして、本日ご紹介をさせていただくツァラトゥストラは、ニーチェ哲学の集大成である人生のネガティブループを強制終了させる最強の劇薬であるというわけです。

 ニーチェは本書について次のように述べています。

 「私はツァラトゥストラを書くことにより、これまで人類に贈られた中で最大の贈り物をした。何千年先にも届く声を持ったこの本は、およそありうる限り最高の書物である。」

 ここで、彼がなぜこういった独特な表現を使い自信に満ち溢れた発言をしているかについては記事の後半に行くにつれて見えてくると思います。

 ちなみに難しい話かもしれないと心配の方は大丈夫です。

 哲学に関する知識は一切入りません。手ぶらでok でございます。

 お茶でも飲みながらリラックスして是非最後まで楽しんでいってください。

 まず、どういった流れでお話をさせていただくか整理をしておきたいと思います。

 テーマは大きく分けて下記の3つです。

 


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背景知識

 フリードリヒ・ニーチェ。

 彼は1844年ドイツの前身であるプロイセンの東部にあるレッケンという小さな村で、牧師の息子として生まれました。

 ただ彼は見た目は子供、頭脳は大人といういわゆる天才少年でして、勉強はできる。作曲もできるし、詩も書ける。しかも、センスは抜群というように初めから普通の子供ではなかったといいます。

 そして、20代の半ばという若さで、スイスにあるバーゼル大学の教授に就任します。

 しかも、当時の彼は教員資格も博士号もなく、ただの学生という立場で教授に推薦されたそうです。

 いかにニーチェが並外れた存在であったかがよくわかります。

 ただ常に右肩上がりといかないのが人生でございます。

 ニーチェの快進撃は、30歳手前ぐらいでピタッと止まり、そこから数々の試練が怒涛のごとく彼を襲います。

 苦労して書き上げた書籍はことごとく売れない。

 授業をやっても学生は来ない。

 教授に推薦してくれた恩師、そして友人からも見放され、さらに慢性的な頭痛に加え、胃も痛み、吐き気も治らない。

 その上、女性関係もうまくいかない。

 もう絶不調が止まりません。

 そして、そんな呪いがかかったような状態の中、彼は渾身の力を込めて1冊の本を産み落としました。

 それが『ツァラトゥストラ』。

 ただこの本、タイトルがちょっと怪しすぎで、あまり手に取る気がおきません。

 しかも、内容も正直言って理解しにくいです。

 ですので、本人の期待とは裏腹に当時、全く売れなかったんです。

 しかも、よりによって4部構成にして、4冊に分けて気合を入れて出版したんです。

 その結果、爆死。

 特に、最後の第4部はあまりに売れなさすぎて、自分で知り合いに「これをもらってやってくれないか?」と配り歩いていたそうです。

 そんな状況の中、さすがのニーチェも「もう本なんか書くか!」と腐ってしまうのかと思いきや、なんと彼はそのまま筆を握り続け、次々と著作を生み出していきます。

 しかも、それらの作品のほとんどがあの滑りに滑ったツァラトゥストラを細くし、解説するという書籍なのです。すごい執念です。

 どれだけ彼が本作に魂を込めていたかが伺えます。

 しかしそんな力強い精神を持ったニーチェも、ついに限界を迎えます。

 1889年、彼が45歳を迎える歳の頃です。

 滞在していたしていたイタリア トリノの広場で事件は起こりました。

 一説によると、無地でバンバン叩かれている馬に駆け寄り、その馬の首を泣いて抱きしめながら発狂し、そして意識を失ってしまったと言われています。

 幸い意識は戻ったのですが、彼の心は完全にこの時壊れてしまい、二度と元のニーチェに戻ることはありませんでした。

 ただ運命とは皮肉なもので、実はこのタイミングになってようやくニーチェの著作に対する評価が高まってくるんです。

 ニーチェ文庫という出版社まで出来て、本もバンバン売れていきます。

 しかし、ニーチェにどれだけ今の状況言い聞かせても、何も認識することができないのです。

 そして精神に異常が出始めてから約10年、55歳という若さでニーチェは天に旅立っていったというわけです。

 ニーチェの人生について超高速で見てきましたが、ここまでよろしいでしょうか?

 以上のストーリーを踏まえた上で、彼が渾身の力を込めて産み落とした最高傑作『ツァラトゥストラ』について見ていきたいと思います。


『ツァラトゥストラ』第1、2部 超人思想

 まず簡単にどういったお話かといいますと、ツァラトゥストラというおじさんが10年間山ごもりをし、孤独の中で知恵を蓄え、それを他の人間たちにも分けてやりたいと言って下山をする。

 そして、その中で様々な人と出会い語り合いながら、自分の地位を分け与えていく…といったお話です。

 ちなみに、このツァラトゥストラというのは、ゾロアスター教の開祖であるゾロアスターをドイツ語読みしたものです。

 ただ、ニーチェ哲学とゾロアスター教は全然関係がありませんので、ここはスルーしていただいて大丈夫です。

 大事なのはツァラトゥストラというおじさんが、ニーチェの分身であるということです。

 ですから、山から下りてきたツァラトゥストラが人々に語っていることは、すべてニーチェの言葉として捉えていただく必要があるわけです。

 では早速見ていきましょう。

 

 まず山から下りてきたツァラトゥストラは、森のふもとで1人の老人と出会います。

 そして「あなたは森で何をしているのか」と尋ねるのです。

 すると、その老人は歌を歌ったりして「神様を称えたりしているんですよ」と答えるのですが、これに対しツァラトゥストラはとんでもない衝撃を受けます。

 そして、心の中で次のようにつぶやきました。

 「ありえない。この老人はまだあのことを誰からも聞いていないのか。神は死んだということを。」

 はい、ここでストップします。早速有名なセリフが出てきました。

 「神は死んだ」

 ニーチェを知らない方も、このパワーワードは聞いたことがあるんじゃないでしょうか。

 では、この「神は死んだ」というこの言葉。これは一体どういう意味なんでしょうか。

 簡単に言ってしまいますと「もうこの世の中には絶対的な真理や価値なんてものは無い」と言っているのです。

 自然科学が発達する前の人類は、自分たちの頭で理解できない事柄については、神のなせる技、神の意図であると解釈をし、納得をしてきました。

 ところが、その神の深遠なる糸を解明しようと、人類は科学技術を発達させ、神の存在を前提とする世界観を自らの手によって破壊してしまったわけです。

 例えば、天動説。

 「地球は宇宙の中心であり、その他の天体はこの地球の周りをぐるぐる回っているだけだ」というこの説は、中世のキリスト教世界においてはまさに絶対的真理ででした。

 反対意見を言おうものなら、もう大変なことになってしまいます。

 しかし、地動説という科学に基づいた新たな解釈が生まれたことによって、じわりじわりと神を前提とする世界観が崩れていったわけです。

 人間の存在も同様です。

 「神が天地を創造し、自分をかたどって男と女を作り上げた」という創造論。

 これも旧約聖書をペーストしたストーリーですが、進化論という新たな学説によって揺らいでしまいました。

 つまりニーチェは「人間は自分たちの手で『絶対的真理はない』と証明してしまった。もっと乱暴に言えば自分たちの手で神を殺してしまったのだ。」という主張をし、西洋世界のこれまでの常識を、まるまるひっくり返しにいったわけです。

 となりますと、その影響は哲学にも及んできます。

 ニーチェ以前の哲学は、神の存在、絶対的真理の存在を前提として成り立っていました。

 例えば、哲学の父ソクラテスです。

 彼は町の人に話しかけでは「善とはなにか」「徳とはなにか」とその答えを求めて問い続けていました。

 そして、弟子のプラトンはその問いの答えに対し、イデアという概念を用いて説明を試みました。

 要するに、ニーチェ以前の哲学者はそれぞれの説明や解釈の仕方は違えど、「普遍的な善ってあるよね」「普遍的な徳もあるよね」というように、絶対的な真理の存在を前提に物事を考えていたんです。

 ところが、ニーチェは「ない!そんなものはない!絶対的な価値、絶対的な基準、絶対的な真理…そんなものはあるわけない!」と主張しました。

 それゆえ、彼はこれまでの哲学を破壊した人物をされているわけです。

 さあここで話を元に戻しましょう。

 では、この世界に絶対的な価値絶対的真理がない状態だと何がいけないでしょうか?

 どんな問題が生じるのでしょうか?

 「別に私は何の宗教も信じていないし、哲学のこととか絶対的なんちゃらとかそんな難しい事を考えて生きているわけじゃないし、関係ないねぇ。」

 もしかしたらそう思われる方もいるかもしれませんが、実はこの問題、人間が人間として生きている以上、誰にでも関係してきてしまう大事なお話なのです。

 絶対的なものが存在しないということは、言ってしまえば何も信じるものがないということです。

 例えば想像してみてください。

 高度経済成長期の日本バブル絶頂だった時の日本。

 この時代は21世紀の資本でもやりましたが、頑張ったら頑張った分だけ報われる時代でした。たくさん勉強して、名門大学に入って、一流企業に入ってしまえば、一生安泰。人をたくさん雇い、ものをたくさん作れば、売り上げも上がる。働けば働くほど給料も上がる。

 そんな時代です。

 つまり頑張れば人生どうにかなるという道筋が、間違いなくあったわけです。

 だから、自分の夢や希望、そして家族のために出世のために辛いことも苦しいことも耐えられたし、歯を食いしばって努力が出来ました。

 ところが、今はどうでしょうか。

 企業を神のごとく絶対的な存在と見なし、定年まで面倒を見てもらおうという終身雇用神話は、もはや過去のものとなりました。

 「いつ職を失うか、いつ食いっぱぐれるか分からない。」

 そして「将来何を目指し、何に希望を持ち頑張ればいいのかわからない」

 そういった漠然とした不安だけが、日に日に大きくなっている。それが今の状態です。

 このように、人が絶対的に信じる者を失い、何のために生きるのか、その意義を見いだせなくなる状態のことをに『ニヒリズム』と言います。

 そして、このにニヒリズムが蔓延していきますと「末人」と呼ばれる人間が大量発生すると、ニーチェは警鐘を鳴らしたのです。

 末人というのは最後の人間とも訳されるのですが、簡単に言ってしまえば、将来に対して何の憧れも希望もなく、ただ楽に無難に惰性的に生きることを良しとする人のことを指します。

 これはもうもちろん本人だけに原因があるわけではないと思います。

 ただ「この末人にだけは絶対になっちゃダメ!」これがニーチェの揺るぎないスタンスなんです。

 「いやいや、私だって好きで希望を失ってるわけじゃないんです」

 「松人になるなっていうんだったら、私はいったい何人になればいいんですか」

 もう突っ込みたくなりますが、結論…

 「超人になってください!

 これがニーチェの回答でございます。

 そして、今から紹介しますニーチェの超人思想。

 これがツァラトゥストラの前半…第1部、第2部のメインテーマとなるわけです。ここは非常に重要で面白いテーマなので是非押さえて頂きたいところでございます。

 では早速、作品の中で超人について語られるシーンについて見ていきましょう。

 先ほどツァラトゥストラは老人と会話をしていましたが、それが終わると森を抜けて街に向かいます。

 すると、町の市場の方でなんかざわざわしているんですね。

 何だろうと思って近づいてみますと、町内イベントで綱渡りのショーが行われるらしく、それで街中の人が集まってきていたというわけです。

 「楽しみだな」「まだかな」そんな声が聞こえる中、山ごもりで蓄えた知恵を吐き出したくてしょうがないツァラトゥストラが、フラフラしながらその群衆の中に近づいていきます。

 誰か適当な人を捕まえて、説教でも始めちゃうのかなと思いきやそうではないです。

 なんと彼はその民衆全員に向けて叫んでしまうです。

 「皆さんよく聞きなさい。私は今から皆さんに超人について教えます。みなさんはかつてサルでした。しかし、今も人間はサル以上に猿なのであります。」

 これは怪しいおじさんが意味不明なことを叫んでいるようにしか聞こえません。

 当然そこにいた人々は、そんな彼を全く相手にしませんでした。

 しかし、ツァラトゥストラは気にせず奇妙な演説を続けます。

 そして、超人について話を終えたところで、群衆の中の一人が大声で叫びました。

 「よし!これで綱渡りゲーの前口上はバッチリだ。それじゃあ早速、超人に登場してもらって、その超人技とやらを披露してもらおう。」

 すると、この人のボケがドカン!と受けてしまい、ツァラトゥストラは皆から馬鹿にされ大笑いされてしまうのです。

 そんな中、綱渡り芸が始まりました。

 人々もその様子を固唾をのんで見守っています。

 ここでツァラトゥストラはバカにされたショックで黙り込むのかと思いきや、なんとまだしゃべり続けています。

 そして、ここで非常に重要なセリフを口にするのです。

 「人間という生き物は、動物と超人との間に針渡しされた1本の綱である。渡って彼方に進むのも危うく、途上にあるのも危うく、後ろを振り返るのも危うく、おののいて立ちすくのも危うい。」

 はい、ここで一旦止めましょう。

 彼が何を言わんとしているのか考えてみたいと思います。

 まず「超人って何?」というところからお話をしています。

 結論から言うと、不屈の精神力そして力強い意志を持ち、自らの人生を肯定しながらより高みへ向かおうとする存在。

 それが超人のイメージです。

 なぜイメージを申し上げたかといいますと、実はツァラトゥストラでは具体的に超人とはこういうものですと定義づけをしていないですね。

 もし定義づけをしてしまえば、ニーチェは自ら絶対的な存在を認めたことになってしまいますから、ここはあえて読者の想像に委ねられているのかもしれません。

 そして、人間というのはその超人という存在に向かって、綱渡りのような危険を乗り越えていく…そういう存在なんですよ、と言っているわけです。

 

 では、どうやったら超人の域に到達できるのでしょうか。

 ツァラトゥストラが言うには、人間の精神には3段階あって、どんどんそのレベルを上げていくことで超人に近づくことができるそうです。

 その段階には名前が付いており、第1段階が「ラクダ」、第2段階が「獅子」、第3段階が「幼子」です。

 順番に見ていきます。

 まずはじめのラクダの段階というのは、重い荷物を背負って我慢するステージです。自分の身に積極的に負荷を掛け、そこで自分の強みを獲得するわけです。学校での勉強、会社での仕事、体を鍛えること、人それぞれにラクダのステージがあります。

 そして、忍耐力や自分の強みが磨かれたのなら、次の段階は獅子です。

 このステージは、窮屈な状態から解放され自由を求めるものが進む段階です。既存の価値観、常識、権威に対して、はっきりと自分の言葉で「No」と言える。そんな独立の精神を持った段階、それがこの獅子のステージです。

 そして最後、第三段階になると獅子は幼子に変身をします。

 自らの創造力に身を委ね、勝手に自由気ままに遊ぶ…まるで幼い子供のような無邪気な精神。それこそが最終段階なのだというわけです。どれだけ大人が世の中の理不尽さを嘆いても、将来を悲観しても、幼い子供には関係がありません。彼ら彼女らにとって、世界は無条件に肯定されるものであり、心のままに戯れ、無心に遊び、自由に創造的に今、この瞬間瞬間を生きています。

 つまり「超人たるものは、この3つのプロセスを経て、最終的には幼子のような精神もその身に宿すものなのだ」というわけです。

 さあ、1部、2部のメインテーマである超人に関するお話はここでおしまいですが、この内容が第3部、第4部、後半の内容へとつながっていきます。

 


『ツァラトゥストラ』第3~4部 永遠回帰

 この後半パートのテーマは 『永遠回帰』と呼ばれるツァラトゥストラの中心思想でございます。

 つまり、今からお示しするところが、この動画の最も重要な箇所であり、ニーチェ哲学を学ぶ上で絶対に外せないテーマというわけです。

 では、さっそく見ていきましょう。

 まず『永遠回帰』とは一体何なのでしょうか?

 結論から言いますと、同じことが無限に繰り返されるという仮説のことを指します。

 もうちょっと具体的に言うと「あなたは今の人生を永遠に繰り返して、前世も来世もずっと同じ人生を繰り返して、無限ループの中をグルグルグルグルと生き続けているんですよ」という仮説です。

 繰り返しになりますが、これは仮説であり事実か事実でないかはあまり重要ではありません。

 仏教の世界にも『輪廻思想』という教えがありますが、永遠回帰は全く異なる概念になります。

 「生命は色んなものに無限に生まれ変わり続ける」これが輪廻思想です。

 例えば、私の来世は大資産家かもしれないし、小さなクラゲかもしれない…そういうお話です。

 一方、『永遠回帰』の場合は、同じ人が同じ人生をぐるぐる永遠にループし続けるというものです。

 さて、ここで質問です。

 皆様はこの永遠回帰の思想を受け入れることができますか?

 それとも「同じ人生をループし続けるなんて勘弁してくれ」と拒絶されますか?

  もちろん正解はありませんし、人それぞれです。

 ちなみに、ニーチェは別の著作でこの永遠回帰の思想を「人間にとっての最大の重しである」と表現しています。

 要するに、人間というのはよほど幸せで恵まれた人でない限り、忘れ去りたい過去のトラウマ、失敗、過ちが一つや二つあるでしょうと。

 それを無限に経験し、続けるのは過去の記憶が消去されているとはいえ、誰だってイヤでしょうと言っているんですね。

 ただ、この思想というのはその人の捉え方次第で、人生を大きく変えるくらいの強力な武器にもなるんです。

 仮に本当にループし続けると、真剣に想像してみてください。

 どうでしょうか。

 永遠にネガティブで、否定的で、不幸な人生か…。

 永遠にポジティブで、肯定的で、幸福な人生か…。

 極端な二つの選択肢が目の前に浮かび上がってくるはずです。

 「さあ、選びたいのはどっちですか?」そう聞かれれば、どう考えても後者しかありません。

 そして、もし後者を選べば、永遠に繰り返してもいいと思えるような人生にしようと前を向いて生きていくしかなくなるんです。

 つまり、永遠回帰というのは、神が死んだ後の世界。

 絶対的に信じる者が失われた世界で、待つ人に陥ることなく、人生を肯定的に力強く、前向きに歩んでいくための思考法といえるわけです。

 では、一体どうすれば永遠回帰の思想を受け入れることができるようになるのでしょうか。

 頭で理屈はわかっても、なかなか自分のものにするのは難しそうだ。

 そこでニーチェは永遠回帰を自分のものとする条件として、ニヒリズムを克服する必要があると説きました。

 イメージしづらいと思いますので、今から実際にニヒリズムを克服し、永遠回帰を受け入れた人間を描いている『ツァラトゥストラ』第1~2部についての重要なワンシーンを紹介いたします。

 どんな場面かというと、一人の牧人の若いが倒れているところをツァラトゥストラらが発見するというシーンです。牧人というのは、馬とか牛とか羊などのお世話をする人です。

 その主人が倒れている横で、犬がギャンギャンと鳴いています。そして、その鳴き声にツァラトゥストラが気付き「何事だ」と言って近づいていくんです。

 そこで彼はとんでもない光景を目の当たりします。

 なんと、倒れこんでいる牧人の口から、黒い蛇の尻尾がにょろっと出ていたんです。

 牧人はあまりの苦しさに、のたうち、喘ぎ、ケイレンを起こしています。

 そこで、ツァラトゥストラらはその牧人を助けなければと、うわーと近づいていき、蛇の尻尾をギュッとつかむと、力いっぱい引っ張って、口から出そうとします。

 ところが、まったく蛇を引きずり出すことができません。何度やっても同じでした。

 そこでツァラトゥストラは絶叫します。

 「蛇の頭ごと噛み千切ってしまえ!さぁ、噛むんだ。噛んでしまえ!」

 すると、牧人は言われるがままに蛇をがぶっと噛みちぎり、その頭を吐き捨て、それと同時にパッと立ち上がります。

 そしてこの様子を見たツァラトゥストラは、次のように語ります。

 「私の目の前にいた男は、もはや牧人ではなかった。いや、人間でもなかった。1人の変容したもの、光に包まれたものだった。そして、彼は高らかに笑った。今まで地上のどんな人間も笑ったことがないほど高らかに。」

 いかがでしょうか、このシーン。非常に重要な場面なんですが、言わんとしてることが分かりましたでしょうか。

 要するに、この七転八倒している牧人というのは、ニヒリズムに囚われた人間のことを描いているのです。

 もうちょっとわかりやすく言いますと…

「こんな希望もない世界に生きている意味なんかないじゃないか」

「頑張ったってどうせ報われないじゃないか」

「どうせ私なんか」

 こういったニヒリズムに陥ってしまいますと、私たちはあの牧人のように、息苦しい人生を送ることになってしまいますよ、と言っているわけですね。

 しかし、牧人は自分を苦しめる蛇を噛み千切り、窮地を出しましたよね。

 すなわち、これこそがニヒリズムの克服なんです。

 もっと具体的に言えば、不安、恐怖、嫉妬、失望、自己不信といった、いろんなことにとらわれ、人生を悲観的に捉えることしかできなかった弱い自分を、自らかみ殺したんです。

 そして、新たな力強い自分に生まれ変わる覚悟を決め、自分の人生を否定的なものから、肯定的に捉え直すことに成功し、高らかに笑った

 これこそが永遠回帰の思想を受け入れ、実践し、自らの全生涯を肯定したものの姿である、というわけです。

 またニーチェは永遠回帰の実践的態度としてもっとも重要なのは、苦しい人生を目の前にし、死にたくなるほど絶望したとしても「これこそが人生なのか!だったらもう一度かかって来い!」と勇気を持って立ち向かうことである、と説きます。

 「今、生きているこの瞬間もこれこそ私の人生なのだ」と自信を持って肯定できる人は、これまで歩んできた過去を振り返っても「これでよかったんだ」と肯定することができます。

 そして未来に対しても、臆することなく前向きに、肯定的に歩んで行くことができます。

 さらに、これが永遠にループするとなれば、自分が生きる世界、自分の命、自分の人生…その全てが 永遠に肯定され続けることを意味するわけです。

 つまり「今、この瞬間を肯定さえしてしまえば、永遠の肯定ループが生まれる」というお話です。

 それゆえニーチェは、永遠回帰の思想を「およそ到達しうる限りの最高の肯定の定式」と名付けました。

 そして、この思想を受け入れたものが辿り着く至高の領域…それが超人なんです。

 もちろん、そこに至る道は決して楽ではありません。1本の綱を渡るように大きな危険を伴います。

 しかし、絶対に安全な道があると頑なに信じ、何もせず時が経つのをただ待っているだけでは、あの牧人のように苦しむしかないんです。

 であれば、自分の弱さを思い切って断ち切って、勇気を持って前進しましょう。

  そして、やれるだけのことを全部やって、自分の何もかも肯定してしまえと言ってるわけです。

 さぁ、いかがでしたでしょうか。端折りに端折って進めてきましたが、ツァラトゥストラに関してはここでおしまいです。

 作品の肝となっている『超人思想』そして『永遠回帰』について、ざっくりイメージいただけたでしょうか。


運命愛

 最後に、ニーチェが提唱した運命愛について簡単に触れて終わりたいと思います。

 運命愛というのは、一言で言ってしまえば「自分の運命を全て受け入れ、肯定し、愛する心の態度のこと」を意味しています。

 ニーチェの思想に基づくならば、この世界に絶対的な善も悪も存在しないということになります。

 であれば、自分の人生で起こる様々な出来事一つ一つに「これは楽しかったから○、これはきつかったから×」と部分的に受け入れるのではなく、そのすべてを愛することの大切さを説いたわけです。

 ただ、そうやってきれいさっぱり気持ちの整理がつけばいいんですが、それができなくて悩むのが我々人間でございます。

 自分の存在、自分の人生に価値を見出せず、できることならもう1回過去に戻ってやり直したい、そんな気持ちが夜な夜な出てきてしまうことだってあるわけです。

 しかしニーチェは次のように言います。

 「たった一度でいい。本当に魂が震えるほどの喜びを味わったのなら、その人生は生きるに値する。つまり、生きている間に、言葉では言い表せないような喜びを手に入れさえすれば、全ての苦しみ、すべての悲しみを引き連れてでも、あなたは自分の人生をもう一度生きることを求めるはずだ。だからどんな運命だろうと愛し、自分の人生を前向きに肯定的に生きればいいのだ

 と言ってるわけです。

  ニーチェ哲学のテーマは生の肯定ですが、この運命愛はまさにその象徴的な概念と言えます。

 しかし、そんな非常に前向きでパワフルな思想の持ち主であるニーチェですが、彼自身の人生といえば、実に苦悩と悲哀に満ちたものでした。

 才能があっても仕事は評価されず、発狂するほど苦しみ、精神を病んでこのよう去るのです。

 これが永遠に回帰するのかと考えますと、正直ゾッとしてしまいます。

 ただ彼は晩年に書いた自叙伝において、自身の人生を次のように振り返っています。

 「どうして私は、私の全生涯を感謝せずにおれようか。そして、だからこそ私は私自身、私の生涯を語り聞かせようとしているのである。」

 ニーチェの精神が崩壊するのは、この言葉を残したわずか数ヶ月後と言われています。

 つまり彼は、最後の最後まで苦悩に満ちた自分自身の運命を愛し、生の肯定という自分の哲学を貫き通し、その人生を全うしたのです。

 そしてニーチェは「自分の死後何百年か先にきっとニヒリズムが世界を覆い尽くし、人々から希望を奪い生きる意味を失わせてしまうだろう」と予見していました。

 だからこそ、彼は自分の魂と声を宿した人格『ツァラトゥストラ』を作り上げ、絶望の前に立ち尽くす未来の人類への贈り物としたのです。

 どこまでも性も肯定し、運命を愛した天才哲学者フリードリヒ・ニーチェ。

 彼の贈り物が開かれるべき時は、まさに今なのかもしれません。

 今日の内容が皆さんの幸せの一助になれば幸いです。

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