本日は、日本を代表する文豪 夏目漱石の私の個人主義を紹介します。
どんな作品かといいますと、漱石が学生に向けて個人主義をテーマに語った講演録です。
新社会人学生の方はもちろんのこと、組織をマネジメントする立場にある方、他人に合わせてばかりいることに疲れてしまった方、この先の世界で暮らすことに不安を感じている方、自分の強みを発見し 最も輝ける場所を探している方に、ぜひ手に取っていただきたい一冊です。
「吾輩は猫である」「坊ちゃん」「心」と言った数々の名作を世に送り出してきた文豪 夏目漱石…彼は国民的作家であると同時に、座談や講演の名手としても定評がありました。
今回取り上げるのは、そんな彼が次世代を担う若者たちに幸福な人生を送るための指針を示した名公演です。
その中には 自由仕事お金 権力など人類の普遍的テーマが盛り込まれており、100年以上経った今でも 十分目にするに値する内容となっています。
リラックスしてどうぞ最後までお付き合いください。
背景知識
夏目漱石(本名 夏目金之助)は、1867年現在の東京都新宿区に6人兄弟の末っ子として誕生しました。
12歳の時に 東京府第一中学に進学。しかし、漢学を学びたいという思いから2年ほどで中退します。
漢学とは、中国伝来の盤石や思想について研究する学問のことを言います。江戸時代に学問といえば漢学でしたが、明治に入ると西洋化が急速に進み、世間では「漢学はもう古くて役に立たない。これからは英語の時代だ。」という風潮が広がっていました。
そんな世の流れに逆行するかのように、金之助は漢学の専門校であった二松学舎に進学、文学の基礎を学びます。
しかし、彼が志望していた東京大学の受験には「英語が必修だ」と分かり、わずか数ヶ月で二松学舎を中退。
その後、英語の専門校であった成立学舎に入学し、猛勉強の末、東京大学に見事合格。同窓生には、後に俳句会に確信をもたらす俳人 正岡子規がいました。
大学予備門に入学してから4年後、2人は『寄せ通い』という共通の趣味を通して知り合います。
ちなみに子規というのはペンネームでホトトギスを漢字表記にしたものです。肺結核を患いよく可決していた彼は、口の中が真っ赤でまるで血を吐くように鳴くと言われるホトトギスと、自分の姿を重ね合わせ、子規という名前を使用したのです。
また彼は 子規以外にも多くのペンネームを持っており、その中の一つに漱石というものがありました。これは 負け惜しみが強く、道理に合わないこじつけを表す四字熟語「漱石枕流」に由来しています。
「頑固者の自分にピッタリの名前だ。」そう思った金之助は子規にそのペンネームを譲ってもらい、後に、自らを夏目漱石と名乗るようになります。
二人は互いの作品を批評し合いながら友情を育み、やがて親友へと発展。その関係は子規が34歳という若さで他界するまで続きました。
1890年漱石は、創設して間もない東京帝国大学英文科に入学。
翌年教授のジェームズ・メインディクソンから英語力を高く評価され、日本三大随筆の一つ鴨長明の「方丈記」の英訳を任されます。
卒業後は 英文学の研究者と学校教員という二足のわらじを履き、東京、愛媛、熊本と各地を転々としながらせわしない日々を送りました。
そんな中ようやく漱石の人生に転機が訪れます。なんと文部省から英語研究のためにイギリス留学を命じられたのです。この機会に本場イギリスで英文学を学び、文学者としての道を開こうと考えた漱石は、妻子を日本に残し、単身で海を渡りました。
ところが大変皮肉なことに、英文学を追求すればするほど、漱石の精神は蝕まれていくことになります。
これまでずっと英文学を研究し、わざわざイギリスまでやってきたけれど、自分がやりたいのは英文学の研究なのだろうか…。そもそも日本人が、英文学を学ぶ意義があるのだろうか…。
漱石はこういった根本的な問いと向き合い続け、ついには心を病んでしまいます。
そんな中、彼はあるものを獲得したことで、精神的危機を乗り越え、作家人生を切り開いていきます。
では、彼の人生を変えたあるものとは一体何なのか。その正体については、後ほど講演の中で出てきますので、ここでは割愛させていただきます。
そしてイギリスから帰国して間もなく、吾輩は猫であるという強烈なタイトルの作品で作家デビューを果たすと、さらに翌年には、自身の教師経験を下書きにした国民的名作『坊ちゃん』を発表。
これらは亡き親友 正岡子規の精神を受け継いで創刊された雑誌『ホトトギス』に掲載され大きな話題を呼びました。
その後、ノイローゼが再発し、さらに持病であった胃潰瘍も悪化するなど、数々の試練が彼を襲います。
しかし、それでも漱石は筆を折らず、1914年9月自身最大のヒット作となる『こころ』を発表。
そして、同年11月『私の個人主義』という講演を行い、若者たちにメッセージを託すと、そのわずか2年後、49歳にして他界します。
では、夏目漱石の講演を示すにあたって、彼が生きた時代について簡単に整理しておきたいと思います。
漱石が生まれ育ったのは明治維新の時代、つまり江戸幕府に代わって新しい政府が誕生し、いよいよ日本が近代国家に生まれ変わろうとしている歴史的転換期にあたります。
その頃は西洋の文明や慣習が次々と輸入され、文明開化と呼ばれる現象が起こるのですが、漱石はこうした世間の風潮に違和感を覚えていました。
具体的には、西洋で起こった近代化はちょうど花の蕾が開くように内発的に起こったのに対し、日本の近代化は西洋の形式だけを真似した外発的なものだと考えたのです。
別に外から起ころうが内から起ころうが結果は変わらないのだから別にいいじゃないかと思う人もいるかもしれません。しかし、漱石にとってこれは大きな問題でした。
なぜなら、彼は大学時代に老子のレポートを書くほど老僧思想に傾倒しており、おのずからそうなっている状態あるいは他から何の影響も受けることがない状態を意味する「自然」という概念を重んじていたからです。
そのため、当時日本で起こった外発的な変化を受け入れつつも、何とも言い難い居心地の悪さを感じていたのです。
また明治維新は、アジアで唯一成功した近代化革命と評される一方で、社会構造の急激な変化に伴い、道徳や信仰といったこれまで人々の精神を支えてきた規範的根拠が失われ、精神が不安定化する人も少なくありませんでした。
つまり、各自が心の拠り所となる新たな足場を見つけ、生き方を見つめ直す必要に迫られていたのです。
こうした問題意識を踏まえた上で、漱石は講演の中で、この難問を解決するための糸口を示しました。
聴衆は「輔仁会」と呼ばれる学習院大学の学生団体です。
その多くは、経済的にも社会的にも優位な立場にあった上流階級に属する若者たちでした。そんな彼らに対し、晩年の漱石は一体何を語ったのでしょうか。
背景知識は以上になります。いよいよ核心に入っていきたいと思います。
自分の道を見つける方法
では漱石のことばから始めましょう。
「私は大学で英文学という専門を3年やりました。その頃は、ディクソンという人が教師でした。私はその先生の前で、詩や文章を読ませられたり、作文を作ったりしては、文法が違う、発音が違うとよく叱られていました。試験には『ウィリアム・ワーズワースは何年に生まれて、何年に死んだ』とか『シェイクスピアの最初の作品集は何通りあるか』とか『ある作家の作品を年代順に並べなさい』といった問題ばかり出ました。年の若い皆さんにも想像ができるでしょう。果たしてこれが英文学かどうかということが。『英文学というよりそもそも文学とはどういうものであるか』これでは到底わかるはずもありません。それなら自力で見極めようと図書館をうろついてみましたが、何の手がかりもつかめませんでした。とにかく一生懸命勉強しましたが、ついに文学は分からずじまいだったのです。私の煩悩は、第一にここに根ざしていたと申し上げても差し支えないでしょう。」
漱石は、当時最も繁栄していたイギリスの文学作品を学ぶことで、文学の本質を捉えようとしていました。ところが、熱心に探求すればするほど、文学とはどういうものかが余計にわからなくなり、精神的に追い詰められていきます。
彼が生きた明治時代は、国を挙げて西洋化を推し進めており、制度や慣習にせよ、文学や芸術にせよ、西洋のものを盲目的に賛美するという風潮がありました。
そうした中、漱石はどれだけ西洋の作品を研究しても、自分が愛した感覚や俳句のように深く味わうことができないという現実に直面したのです。
例えば、皆さんも世界的に話題になっている映画や音楽を鑑賞したとき、「なぜ自分の心にはちっとも刺さらなかった」とか「自分の感覚がみんなと違っておかしいんじゃないか」とか、不安に感じたことがあるのではないでしょうか。
ただ漱石の場合は、趣味は娯楽ではなく、人生をかけて追求してきたテーマにおいて、こうした壁にぶつかったのです。
そう考えますと、彼がどれほど悩み苦しんだかは想像に難くありません。
一体漱石はこの試練とどう向き合い、どう乗り越えていくのか、さあでは続きを見ていきましょう。
「そんなあやふやな態度で世の中へ出て、私は教師になりました。なったというより教師にされてしまいました。というのも、当時の私は教師という職業に全く興味を持つことができなかったのです。教育者という素因が欠乏していることは、初めからわかっていましたが、とにかく教室で英語を教えること自体が面倒で仕方がありませんでした。だから『自分の才能や資質が発揮される場所へ隙あらば飛び移りたい』と常々思っていたのですが、その場所はどこかにあるようでどこにもなく、結局どうすることもできなかったのです。このように、生まれた以上何かをしなければならないけれど、自分が何をすれば良いのかちっともわからない…。私はまるで、袋の中に詰められそこから出られなくなった人間のようでした。自分の手にただ1本の桐さえあれば、どこか一箇所突き破ってみせると 焦ってはみたものの、あいにく桐は誰からも与えられず、また自分で見つけることもできず、ただ腹の底で『この先自分はどうなってしまうのだろう』と思い、人知れず陰鬱な日々を送っていたのです。こうした不安を抱きながら大学を卒業し、松山から熊本へ引っ越しついには外国にまで渡りました。できる骨を折り、自分なりに努力をしたつもりです。ですが、どんな本を読んでも、どれだけロンドン中を歩き回っても、結局何も見つからなかったのです。私は、下宿のひと間の中で考えました。つまらないと思いました。いくら書物を読んでも、腹の足しにはならないし、何のために書物を読むのかもよくわからなくなってきました。そして、悩み抜いた末、私は文学とはどんなものであるか、その概念も根本的に自力で作り上げる以外、私を救う道はないのだと悟ったのです。これまでの私は、全くの他人本位でした。根のない浮き草のように漂っていただけでしただから、何の道筋も見えてこなかったのです。」
漱石は留学先のロンドンでノイローゼになり、真っ暗な部屋の中で絶望しながら毎日泣いていたと言われています。
そんな窮地から彼を救ったのは、特別な方法ではなく、生きるスタンスを他人本位から自己本位に切り替えるというシンプルな発想の転換でした。
他人本位とは「他真似をしたり、他人の評価を気にしたりする態度」のこと。
別の言い方をすれば「物事の価値基準を自分以外の誰かに委ねること」を言います。
例えば世間の人がマルだといえば自分もマル。偉い人がバツだといえば自分も同じようにバツというように、何をするにせよ、何を考えるにせよ、他者が主体になっているようなイメージです。
これに対し、自己本位というのは「自分の価値基準に基づいて、物事を考えたり、決定したりする態度」のことを言います。
人は往々にして、自分よりも優れた人物の意見に耳を傾け、それに従って物事を判断したくなるものです。
なぜなら他人に考えてもらった方が疲れないし、プレッシャーもないし、楽だからです。
しかし、漱石が経験したように他人本位であり続けていると、最終的にはつまらないという感情に行き着いてしまうのです。
もしかしたら皆さんも誰かから言われたとおりのことを行い、結果的にはうまくいったのになぜか思ったほど喜べなかったとか、自信がつかなかったといった経験があるのではないでしょうか。
他人本位の人生から解放された漱石は、西洋の上辺を模倣するのではなく、文学という概念を自ら再構築することを決意しました。
もっと平たく言えば、答え探しなんかやめて、いっそのこと自分で答えを作ってしまおうと考えたわけです。
その時に起こった精神的な変化について、彼は次のように振り返っています。
「自己本位という言葉をこの手に握ってから、私は大変強くなりました。茫然自失の中にあった自分に、この場所に立ち、この道からこう行かなければならないと指図をしてくれたものこそ『自己本位』という四字だったのです。私の不安は全く消えました。長年悩み抜いた結果、ようやく自分のツルハシが、ガチリと鉱脈を掘り当てたような気がしました。皆さんはこれから学校を去り、世の中へお出かけになる。それにはまだだいぶ時間のかかる方もございましょうし、間もなく実社会で活動なさる方もあるでしょう。しかし、いずれにせよ多くの方が私と似た苦しみを味わうと思うのです。つまり、どこか突き抜けたくても突き抜けることができず、何か掴みたくてもつかめないような経験をすると思うのです。もしあなた方のうち、すでに自力で切り開いた道を持っている方がいれば、それは大変結構なことです。また他人の後に従い、それで満足し、在来の古い道を進んでゆく人も決して悪いとは申しません。ですが、もしそうでないならば、あなた方はご自分のツルハシで、何かを掘り当てるところまで進んで行かなければならないでしょう。なぜなら、もし掘り当てられなければ、その人は生涯不愉快な思いをするからです。この点を力説するのは全くそのためで、何も私を模範にしなさいという意味ではないのです。いずれ皆さんも私と似たような苦悩を経験すると鑑定しているのですがどうでしょうか。もしそうだとすれば、何かに打ち当たるまで行くということは、生涯の仕事にせよ、あるいは10年20年の仕事にせよ必要ではないでしょうか。『ここに自分の進むべき道があった!』『ようやく掘り当てた!』こういう感動詞を心の底から叫ぶことができたとき、あなた方は初めて自分を安心させることができるでしょう。もし悩んでいるのなら、どんな犠牲を払っても、ここだというところまで、掘り当てるところまで進んでみたらよろしかろうと思うのです。それは国家のためだからとか家族のためだからということではありません。あなた方、ご自身の幸福のためにそれが必要だと思うから 申し上げているのです。どこかにこだわりがあるのなら、それを踏みつぶすまで進んでいかねばなりません もっともどう進んでいいのかすらわからないのだから、何かにぶつかるまで進む以外にないのです。私は忠告がましいことを強いる気はまるでありませんが、それが将来、皆さんの幸福のひとつになるかもしれないと思うと、黙っていられなくなるのです。」
自分のツルハシが、ガチリと鉱脈を掘り当てるところまで突き進むことが、自分の幸福につながるといったお話でした。
要するに、仕事でも学芸でも趣味でも、あなたの個性とあなたのやりたいことが、ピタッとはまるような何かを粘り強く探してくださいと。
なぜなら、この2つの噛み合わせが悪いまま生きると、人間は常に不愉快な思いをし続けますと。
けれども、もしうまくかみ合わされば、自分の道が明確になり、自信を持って人生を歩むことができると言っているわけです。
「いやいや…漱石ほどの人物がこれほど苦労したんだから、自分には到底できるはずがない」と、諦めたくなった方もいるかもしれません。
しかし、彼が人一倍苦しみ、人一倍遠回りしたのは、他人本位のまま自分の道を探していたからなのです。
他人の基準、他人の視線の都合…こういったものにがんじがらめにされ、常に自分を押し殺していれば、自分らしさも自分のやりたいことも発見しようがあり ません。
仮に近くにあったとしても、自己本位という足場に立たなければ、それらは自分の視界に入らないのです。
ただ自己本位は、幸福な人生の獲得において重要な役割を果たす一方で、解釈の仕方を誤るとエゴイズムを蔓延させ、社会を腐敗させる危険性を持っています。
そこで、漱石は慎重に言葉を選びながら、自己本位に生きることの注意点について語り始めます。
自己本位の注意点「お金と権力」
漱石のことばから始めます。
「この学校は、社会的地位の高い人が入るところのように世間から見なされています。もし私の推察どおり、上流社会の子弟ばかりが集まっているとすれば、これからあなた方に附随してくるもののうちで、第一に上げなければならないのは「権力」です。つまり、あなた方が世間に出れば、貧民が世に立った時よりもさらに権力が使えるということなのです。権力とは、自分の個性を他人の頭の上に無理やり押し付ける道具、あるいはそんな道具になり得る力と言えます。そして、権力に次ぐものとして挙げられるのが「金力」です。これも、あなた方は人よりも余計に所有しておられることでしょう。金力とは自分の個性を拡張し、他人を誘惑するための道具として使える至極貴重なものです。つまり、権力も金力も自分の個性を他人に押し付けたり、他人をその方面に誘惑したりするという意味において、大変便利な道具だと言わなければなりません。こういう力を持って いることはえらいことのように思えますが、実はその反面、非常に危険なことでもあるのです。」
「権力」とは自分の個性を他人の頭の上に無理やり押し付ける道具であり、「金力」とは自分の個性を拡張し、他人を誘惑するための道具であるとありました。
要するに、人間は権力やお金を持ち、人よりも優位な立場に立つと、他人の個性を潰したり、ねじ曲げたり、自分色に染め上げたりするものだと言っているわけです。
その身近な例として、漱石は知り合いの兄弟の間で起こったとある出来事について示しています。
「釣り道楽を趣味にしていた兄は、引っ込み思案でいつも読書ばかりしている 弟の性格を忌々しく思っていました。そこで、弟の内気な性格を変えてやろうと、無理やり道具を担がせ、釣りに誘い出しました。もちろん、弟は全く乗り気ではありません。しかし、兄の高圧大きな態度によって、渋々釣りに出かけたところ、彼はますます釣りが嫌いになってしまったのです。もしかしたら、皆さんも家庭や学校、職場などで何らかの理想像を押し付けられたり、個性的であること自体を求められたりして、ストレスを感じた経験があるのではないでしょうか。自己本位に生きることは『自分で自分の個性を尊重して生きること』ですが、そこには『他者の個性も同じように尊重する』という前提条件が含まれています。もしそれが破綻していれば、自己本位はただのエゴイズムになってしまいます。ところが、世の中には先ほどの兄弟のように、立場の弱いものが強いものに よって個性を抑圧されたり、押し付けられたりするケースが少なくありません。」
そのうえで、漱石は「西洋文化の上辺だけを取り入れた当時の人々が自分勝手な行動を正当化するようになった」とし、次のように苦言を呈しました。
「最近では自我とか自覚といった言葉を捉えては、自分勝手な真似をしても構わないといった風潮がありますが、その中には 甚だ怪しいものが混じっています。彼らは自分の自我を尊重しろと言いながら、他人の自我については全く認めていないのです。誰かが自分の幸福のために個性を発展させようとしている時、相当な理由もなく妨害してはなりません。なぜ『妨害』という言葉を使ったのか、それは将来皆さんが自分の権力や金力を用いて、誰かの個性の発展を妨害できる立場に立つだろうと思われるからです。そもそも世の中に義務が附随しない権力があるでしょうか。例えば、自分の権力を使い、いつも生徒を叱ってばかりいる教師がいたとします。当然、この教師は授業をする資格のない人物です。叱る権利を先生は、教える義務があります。従って、叱るのならば生徒に対し、骨身を惜しまず教えなければなりません。これは、お金についても同じことが言えます。お金はあるのに、自分が果たすべき責任を理解していない。そんな資産家がこの世にあって良いはずがないのです。お金とは、大変貴重で、融通が利く便利なものです。家を買うことも、書籍を買うことも、遊郭を賑わすこともできる一方で、お金は人間の徳義心を買い占め、魂を堕落させる恐ろしい道具でもあります。したがって、富を所有する者は徳義心を持って道義上、害のないようにお金を使わなければなりません。それ以外に人心の腐敗を防ぐ道はないのです。」
権力や筋力とは、天から授けられた力でもなければ、自分一人で獲得したものでもなく、他者の援助や犠牲、環境や運の良さといった社会との関わりの中で形成されるものです。
従って、人よりも大きな権力と経済力を手に入れたのであれば、それ相応の社会的責任が生じると言えます。
例えば、今日の企業は、利益を追求し、規模を拡大するのと同時に、働いている従業員の健康や、安全な地域社会の発展や、環境の保全といった責任が課せられています。
なぜなら、企業も社会の一員であり、人材にせよ物やお金にせよ、環境にせよ、何らかの資源を社会から調達しながら事業をしているからです。
そのため、大きな権力や金力を手に入れた場合には、何でも好き勝手に使えるんだと思い込むのではなく、その力に附随しているとは何なのか、またそれはどうすれば果たすことができるのか、という問題と常に向き合い続ける必要があるのです。
そのうえで、漱石は講演の前半部分を、次のようにまとめます。
「今までの話をまとめると、第一に『自己の個性を発展させようと思うならば、同時に他人の個性も尊重しなければならない』ということ。第二に『自己の所有している権力を使用したければ、それに付随している義務を心得る必要がある』こと。第三に『自分の金力を示そうと願うなら、それに伴う責任を重んじなければならない』こと。以上、三か条に帰着するのです。つまり、倫理的にある程度の収容を積んだ人でなければ、個性を発展する価値も、権力を使う価値も、また金力を使う価値もないということです。もし人格のないものが、むやみに個性をしようとすればどうなるか…。他人を妨害し、権力を乱用し、金力によって社会を腐敗させるでしょう。そして、今、申し上げた3つのものはあなた方 が将来において最も接近しやすいものです。だから、皆さんはどうしても人格のある立派な人間になっておかなければなりません。」
倫理的にある程度の修養を積んだ人でなければ、個性を発展する価値も 権力を使う価値も金力を使う価値もないとありました。
要するに、漱石は将来、国や組織を背負って立つであろう学生たちに、リーダーの条件を示しているのです。
具体的には、他者の個性を自分の個性と同じように尊重できる共感力、私利私欲にとらわれない自制心、さらには社会の一員として自分に課された役割を理解し、それを果たそうとする責任感、こういった要素を備えた人格でない限り、権力も金力も正しく扱うことができないというわけです。
人間は欲望の赴くまま権力やお金を欲しがるものです。
なぜなら、それさえ手に入れば何もかも自由になり、幸せが訪れると考えるからです。
仕事を辞めて自由になりたい、お金持ちになって自由になりたい、こういった言葉が巷に溢れているように、自由という言葉には、希望に満ちた明るいイメージがあります。
ところが、漱石は自由に対し、漠然とした希望を抱くのではなく、むしろ絶望しなければならないと考えていました。
その真意とは一体何なのか、さあというわけで最後のテーマを次から見ていきます。
国家の繁栄か個人の幸福か
まずは漱石のことばから紐解いていきます。
「ご存知の通りイギリスという国は、大変自由を尊ぶ国であります。しかし、彼らはただ自由なのではありません。自分の自由を愛するとともに、他の自由を尊重するよう、子どもの時から社会的教育を受けているのです。私は英国を手本にせよと言っているのではありません。義務が伴わない自由は、本当の自由ではないと申し上げているのです。わがままな自由は、決して社会には存在し得ないし、もし存在してもすぐに排斥されたり、踏み潰されたりするでしょう。私は皆さんが自由であることを絶望すると同時に、それに附随する義務について納得されることを願ってやまないのであります。こういう意味において、私は個人主義だと公言してはばからないつもりです。」
要するに、多くの人が欲しがる権力やお金と同様に、自由にも義務が附随してきますと。
こういったことを承知した上で、自己本位に生きることが、自分が伝えようとしている個人主義なんだというわけです。
では、自由に課せられた義務とは何なのでしょうか。
さあでは続きを確認していきましょう。
「個人の自由は個性を発展させる上で必要なものです。また、個性の発展は皆さんの幸福と深い関わりを持っています。そのため、よほどの影響がない限り、僕は左を向くが君は右を向いても構わないといった自由は、自分にも他人にも与えられなければなりません。それが、とりも直さず私の言う個人主義なのです。金力や権力の点においても同じです。俺の好かない奴だから畳んでしまえとか、気に食わないものだからやっつけてしまえとか、悪いこともないのにただそれらを乱用したらどうでしょう。人間の個性が破壊されると同時に人間の不幸もそこから起こってしまいます。」
自分の自由を尊重して欲しければ、他人の自由も同じくらい尊重する必要があるといった内容でした。
例えば、自分と価値観が合わない人と出会うたびに、いつも心をかき乱している人物がいたとします。
また、彼は誰よりもお金や権力を持ち、自分と意見が合わないものは容赦なく粛清をするといった暮らしを何十年も続けているとします。
さて、この場合、その人物は自由な人生を謳歌しているでしょうか。
おそらく、誰の目から見ても、精神的に不自由な生き方をしています。
つまり、他人の個性や自由を尊重できる寛容な心を持たなければ、いつまでも人は自由にも幸福にもなれないのです。
ただ、このように人間の個性や自由を尊重するという考えは、一部の権力主義者や個人よりも、国家に価値を置く国家主義者から警戒される可能性があります。
そこで漱石は、個人主義は国家に害をなす危険なものではないと、次のように強調します。
「私が述べている個人主義は、多くの人が考えるように国家に危険を及ぼすものでも何でもありません。他の存在を尊敬すると同時に、自分の存在を尊敬するというのが私の解釈なのです。個人主義は国家主義の反対で、それを打ち壊すようにとられますが、そんな理屈の立たないものではないのです。事実、私たちは国家主義でもあり、世界主義でもあり、同時に個人主義でもあるのですから…。自由とは、国家の安危に従って、寒暖計のように上がったり下がったりするものです。つまり、国が危機的な状態になれば、個人の自由が狭められ、国家が安泰ならば、個人の自由が膨張するという理屈です。国が危うくなれば、誰だって国の安否を考えます。一方、国が強く、戦争などの心配がなければ、国家的観念は 少なくなり、その空気を満たすために個人主義が入ってくるのは当然としか言いようがありません。」
要するに、人間はたった一つの主義に染まっているのではなく、その時々の状況に応じて個人主義にもなり、国家主義にもなり、世界主義にもなりますと。
例えば、国が平和であれば、国民の興味・関心は国のことよりもむしろ自分の仕事のこと、家庭のこと、将来のことといった、個人的な問題に移行していきますと。
ただ、それは国のことを大事に思っていないという話ではなく、当然起こりうる自然な流れなんだと言っているわけです。
このように、彼は個人主義が国に害をなすものではないと釘を刺した上で、再び個人主義の必要性を強調します。
「確かに、今の日本はそれほど安泰でもないでしょう。貧乏である上に、国が小さい。従って、いつ、どんなことが起こってくるかも分かりません。そういう意味において、我々は国家のことを考えていなければならんのです。けれども、その日本が、今まさに滅亡の憂き目に会うとか言った状況ではない以上、そう『国家、国家』と騒ぎまわる必要はありません。それはまるで、火事が起こってもいないのに、家事装束を身にまとい、窮屈な思いをしながら、町中を歩いているようなものです。いよいよ戦争が起こった時とか、地球存亡の場合になれば、考えられる頭の人、あるいは考えずにはいられない人格の持ち主が、個人の活動を切り詰めてでも国家のために尽くすようになるでしょう。だから、私は国家が平穏な時には、特技心の高い個人主義に重きを置く方が、どうしても当然のように思われるのです。」
20世紀のファシズムに代表されるように、権力主義者は国家のため社会のためといったスローガンを掲げては、国民の自由や個性を抑圧してきた歴史があります。
しかし、国の存亡が関わる緊急事態でもないのに、個人よりも国家に絶対的優位性を置いてしまえば、国民は個人の幸福を追求することができません。そこで漱石は、未来の権力者たちに個人主義の必要性を説き、窮屈な世の中にならないよう、上手にバランスをとって欲しいと願ったのです。
さあ、これで講演は終了となります。
では最後に、彼の終わりの挨拶を読み上げてこの内容を終えたいと思います。
「せっかくのご招待だから、今日ばかり出て、できるだけ個人の生涯を送られるべきあなた方に個人主義の必要をときました。これは皆さんが世の中へ出られた後、幾分かご参考になるだろうと思ったからであります。果たして、私の言うことがあなた方に通じたかどうかわかりませんが、もし意味がわからなかったとすればそれは私の言い方が足りないか、または悪いかだろうと思います。曖昧な点があればいい加減に決めないで、どうぞ私の家までおいでください。できるだけ、いつでも説明するつもりでありますから。またそうした手数を尽くさないでも、本意が十分に伝わったのなら、私の満足はこれに越したことはありません。あまり時間が長くなりますから、これでごめんを被ります。」
はいというわけで私の個人主義以上でございます。
いかがでしたでしょうか。
最後までご覧いただきありがとうございます。
皆さんの人生の一助になれば幸いです。
コメント